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ムサシの桜

 「あたしはねぇ、あなたがいたから、妻やって、母親やって、娘やって、先生やって、……これたのよ。いなくなって、あたしどうしていいかわからない……ほんっとーに、困ってんだから――」

 私は泣いて地面を叩いた。

 ぼやけた視界の中で、夫が近づくのが見えた。目の前に見えた夫の胸は広く、息遣いが聞こえた。

 私は溺れた子のように無我夢中でその胸にしがみついた。

 夫は無言でなされるがままに私を受け入れた。

 染料の匂いがした。昔どこかで嗅いだことがあると思った。

 父の匂い。幼いころ怪我をしてだっこされたときに感じた匂いだ。

 「お父さん!」

 「なんでも分かっているような顔をしてきたけどね、本当は、私、いつも不安だったの」

 私は父の胸で涙に濡れた顔を拭いた。

 父は私の頭をなでた。遠い日、私が泣いていると、こうして父は黙って私の頭をなでてくれた。

 私は小さな子供だった。

 父の胸は温かく、心地よかった。

 父の背後で母が微笑んでいる。

 何もおそれるものはない。

 このままずっとこうしていたい。

 こうしていよう――。

        (つづく)
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テーマ : 自作連載小説
ジャンル : 小説・文学

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